漢方つぼ物語   (1)

百(ひゃく) 会(え)


 その娘さんが始めて私の治療所を訪れたのは、新しい年が明けてまもなくのことだった。
夜、眠れないのだという。(恋わずらいか…)とつぶやきながら、私は頭のてっぺん、百会のつぼを取ることにした。
両耳を前方に折り曲げたとき、一番高いところを結ぶ線と頭の正中線(身体を左右対称に分ける線)とが交わるところが名穴・百会のつぼである。
不眠症・ヒステリーから痔の治療まで、幅広く応用される。ここを押さえると娘さんはひどく痛がった。
 米粒大の灸をすえながら、
「恋人にふられたか?」
と冗談めかしてたずねると、
「ゆくえがわからないの。」
と、そうこたえるなり口元をきゅっと引き締めた。思いつめた表情だ。気を引き立ててやろう、と思ったのがいけなかった。口がすべって、ついくだらないことを言ってしまった。
 「大丈夫! 今、灸をすえているつぼは百会といって、読んで字の通り、百回治療すれば恋しい人に会えること請け合いだ。」
 娘さんはこころなしか、来たときより元気になって帰っていった。
 「いいの? あんな口から出まかせ言って?」
 うちのかみさんだ。娘さんとのやり取りを聞いていたらしい。ま、なんとかなるさ。
***
 娘さんは思いのほか熱心に通ってきた。
おまけに、「先生、これでもう40回目になるのよ。」などと言ったりする。
どうにも「百回治療すれば…」という例のご託宣を真に受けているようなのだ。
 そんなある日、くだんの娘さんの母親という人が手土産を持って訪ねてきた。
「娘がお世話になっております。」
と丁寧に挨拶するから、こちらもぺこりと頭を下げた。
「なにか、お付き合いなさっていた方が行方不明だとか…」
というと、母親は驚いた顔でしばらく私を見つめて言葉がない。ややあって、
「娘がそう申しましたか?」
と尋ねるから、今度はこちらのほうが驚いて母親の顔をぽかんと眺めた。
「娘の婚約者は、去年の秋にオートバイの事故で亡くなったのです。」
「娘さんは、そのことを知らないのですか?」
「いいえ、そんなはずはありません。きっと、死んでしまったと信じたくないのでしょう。不憫な子です。」
 客人の去った後、憮然としてたたずんでいると、いつの間に入ってきたのか、またしてもかみさんだ。
「ほおら、言わんこっちゃない。知いらないっと。」
***
 月日は望むと望まざるとに関わりなく、確かな足取りで過ぎてゆく。やがて、不憫な不眠症の娘の百回目の治療の日が来た。
私は今までと特別変わった治療を施したわけではない。あえていつもと違ったところといえば、この娘さんの人生に彼女が既に経験した以上の不幸がないように、と心のなかで祈ったことくらいだ。
 翌朝、始業の準備中に娘はやってきた。いきいきと目を輝かせている。
「先生の言ったこと、本当だったわ。きのうわたし、あの人に会えたのよ! あの想い出いっぱいのオートバイに私を乗せて、お花畑や小川のほとりを何度も走り回ったわ。」
そう言ったあと、娘さんは少し顔を曇らせて続けた。
「でも、私が『もっともっと走っていたい』って言うと、『ごめんよ。僕はもう、遠いところへ行かなくっちゃならない。君は、これからは、僕なしでしっかり生きるんだ。』って、そう言って、あの人のオートバイ、どんどん小さくなって、見えなくなって…」
娘さんは、懸命に涙をこらえている。
 …ああ、おれはなんてだらしないんだ! 日ごろ、悪い冗談ばっかり言ってるくせに、こんなときに、娘さんを励ます気の利いた一言が出てこないなんて。
だれか、こんなときに頭の冴え渡るつぼを、教えてくれないものか…。

  〔百会(ひゃくえ)〕尾てい骨の下方から出発して後正中を頭頂まで上り、さらに顔面を上の歯ぐきの上際までおりる督脈という経絡(奇経)の第19穴。
取穴:頭頂部正中線上で、連耳線(左右の耳介を前に折り、その上角を結ぶ線)との交叉部に取る。
 治効:頭痛・神経症・不眠症・高血圧症などに鎮静的効果を持つほか、痔や脱肛にも用いられる。
〈参考〉後正中を上行する督脈と前正中を上行する任脈に、手足の内外各3本計12本の経絡(12経)を加えて14経と呼び、正穴(正式のつぼ)はこの14経のいずれかに属する。


 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。
  尚、前段の物語の部分はフィクションです。


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