漢方つぼ物語  (106)
肩井(けんせい)
〈客室マッサージ師になる〉

 客筋の良さが自慢の老舗(しにせ)のホテルのオーナーM氏から「折り入ってお願いしたいことがある」と連絡を頂いたのは平成20年2月13日のことだった。日付まで正確に覚えているのは、その日が亡き父の祥月命日だったからだ。蛇足ながら、そのホテルは私ども夫婦の新婚初夜の宿でもある。
 祥月命日といえば丁度5年前のこの日、県立盲学校から「非常勤講師に来てもらえないか?」との申し出を受けた。父は口癖の如く「鍼灸指圧師の仕事は視覚障害者の職域を侵すものだから、視覚にハンデのある人のためにできうることはすべきだ」と日頃から口にし、自ら模範を示すようにアイバンク登録し死後、角膜を提供した。そんな父の命日に来た話であるから私は一も二もなくこの話をお受けした。その結果、齢50歳にして公立学校の教師となったのだ。

***

 「永く勤めた専属の客室マッサージ師が急逝し、後任選びが難航している。治療師のお仲間か盲学校のOBで、どなたか適任の方をご紹介頂けないか?」
 それがオーナー氏の依頼の内容だった。私は条件を詳しくおききした上で、さてどなたを推薦すべきか、あれこれ考えを巡らしながら帰宅し妻に言った。
 「このような次第で、かような条件で、ホテルの専属マッサージ師を紹介させていただくことになったよ。」
 間髪を入れず妻が言った。
 「それ、あなたが引き受けなさい!」
 思ってもいないことであった。なんで私が、という思いで、
 「えっ!?」
 と叫んで妻の方を見やると、妻はすまして言葉を続けた。
 「何が『えっ!?』よ。来年の春からうちの子、下宿して大学に行きたいって言っているでしょ! その費用、どう工面するつもり? 私、ずっとお仏壇の前でお父様にお願いしていたのよ。このお話が仏様からの答よ。今日はお父様の祥月命日でしょ!」
 妻の言うことは一から十までスジが通っている。私は悔し紛れに言った。
 「どうせ仏様に祈るなら、宝くじを当ててくれと祈ってほしかったな。」
 「それも祈ったわよ。でもそっちのほうは競争率が高すぎたみたい…。」

***

 オーナー氏は「あなたが引き受けてくれるとは望外の幸せ!」とばかりに、就職祝いとして極上のシラス干し一箱をお届け下さった。
 2月18日の月曜日がホテルでの勤務初日であった。もちろん昼間は今まで通り親から引き継いだ治療院で仕事をし、夜8時から客室マッサージ師に変身するのだ。週に2度、5時間の盲学校非常勤講師も相変わらず続けているから、「自営で、公務員で、なおかつサービス施設の勤務者」という、世にも珍しい3足のわらじを履く治療師が誕生したわけである。
 この日、待機室の本棚にあったホテル経営の専門書を読みフランスのリッツからアメリカのスタットラー、さらにはヒルトンに引き継がれた近代ホテルの系譜とその理念を学び、米国コーネル大学にホテル経営学部というホテルマネジメントの最高学府があることを知った。そのあと何気なくテレビのスイッチを入れると、まもなく開催されるサミットの会場となるウィンザーホテル洞爺の窪山哲治社長が登場した。コーネル大学ホテル経営学部出身である窪山社長のコメントにいたく感銘した。曰く、
 「ホテルは単にサービスを提供する施設であるにとどまらない。そこは文化を創造する舞台である。」
 感化されやすい私は、たった一人の待機室で雄叫(おたけ)びを上げた。
 「ホテルの客室マッサージを、ホテル文化の華として定着し高めるのだ!」
 この日、私へのマッサージ依頼はゼロ、であった。

***

 30年の経験をひっさげて勇躍、ホテルマッサージの世界に足を踏み入れた私であったが、いささかへこむこともあった。
 ある日の深夜、少なからずお酒をきこしめされ肩こりの代表的なツボである肩井(けんせい)付近のこり尋常ならざるお客様にお呼び頂いたおりのこと…。
 「なんや、それは? そんなものはマッサージやない。免許持っとるのか?」
 この際、このお客様のニーズに徹底して応えようと、
 「代金は要りません。ご所望のマッサージがどんなものかお教え下さい!」
するとこの客人は私には見向きもせず、電話機を取りフロントに怒鳴った。
 「こんなでたらめなマッサージ師を雇うな!」
 四つ葉のクローバーは踏まれ傷ついてもなお生命維持のため余分に葉を出す。逆境にあって向上心を失わない者だけが、人に幸福感を与えることができる…。
 これは娘の通う学校の入学式のために用意したPTA会長祝辞の一節だが、このメッセージによって最も励まされたのは、ほかならぬ私自身であったのだ。

〔肩井(けんせい)〕目尻・コメカミから体側をおりる胆経の21番目のツボ。
 取穴:首の最下部の大椎穴と腕付け根やや前の肩K(けんぐう)穴との中間。
 治効:肩こりの代表的なツボ。眼・頭の疲れと腕の疲れが交わるところ。

《作者から一言》 伝票に記された客室のドアをノックし扉が開かれるごとに新しい出会いのドラマが始まります。ホテルマッサージの仕事はこのうえなくスリリングで、なおかつ技術向上と精神的成長をもたらす絶好の修行場です。少なくとも向こう十年、この仕事を続けて参りたいと考えています。けっしてへこたれません!
なお写真は、私の勤めるホテルのすべての客室に置かれているマッサージ案内プレートに「全身の血液循環を促すことにより、こりを効果的にほぐします。」というメッセージと共に添えられているものです。(宮本)

p>


上は東急イン案内プレート用写真と肩井の図

 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。

[前のページへ] [次のページへ] [メニューへ戻る]
[トップへ戻る]


社団法人 和歌山県鍼灸マッサージ師会
 〒640-8341  和歌山市黒田97−14
 電話  073-475-7771  FAX   073-474-2241

 メールはこちらまで  info@washinshi.com