漢方つぼ物語  (119)
頷厭(がんえん)

〈罪、心の空洞そして人の絆〉

ビジネスマンとしての多忙な生活の中で二つの疑問がしばしば頭をもたげる。
 一つは「人間、絶対にばれなけりゃ悪いことをしてしまうに違いない。発覚する可能性がないと確信できる状況下で、なおかつ悪事を思いとどまることのできる人間はいるだろうか?」というもの。私は営業畑の人間で多額の現金を手元に保管することはまれだが、常に現金を扱う部署や他人に便宜を与えうる地位にある者は金をちょろまかしたり、不適切な金品を受けとる誘惑にかられたりすることはないのだろうか、と思ったりする。
 もう一つは「人間はそれぞれ誰かを心の支え、または生き甲斐として生きているのではないか。そうだとして、その最愛の人を喪った時、ぽっかり空いた心の空洞を埋めることはできるのだろうか?」という疑問。急逝した妻の亡骸(なきがら)に人目をはばからず取りすがり号泣していた友人の姿がまぶたに焼き付いて忘れられないのだ。

 ***

 同僚の親御さんの通夜に列席することになった。高速道路を車で走って1時間以上かかる遠方の通夜だ。不案内な場所へのお参りに気が重くなっていた私に、経理課の友人・中井清が「オレの車で一緒に行かないか」と誘ってくれた。
 「昨晩、残業で寝不足なんだ。おまえと雑談して行けば眠気覚ましになると思ってな。」
 中井清と私は同期入社だが部署が違うのでそれほど親しい付き合いはない。それでも同期の心やすさで「密室で二人きり」のドライブの車中、私は議論を吹きかけた。
 「なあ仮にだよ、これは使い込んでも絶対に分からないな、と自信を持てる金があったとする。いや、この例は露骨すぎるな…。そうだ、明らかにおまえの役職上の裁量を期待して贈り物が差し出されたとしよう。これを突っぱねる勇気はあるか?」
 この「踏み絵」を提示する時、「悪の仲間に引き入れる」かの如き微妙な心理が働くのが自分でもおかしい。ちなみに私がこう問いかけて、「断固突っぱねる」と宣言した者は今までに一人もいなかった。ハンドルを握っている同僚の横顔を助手席から眺めながら、私は彼の返事を待った。
 葬儀場までまだ時間はたっぷりあった。

 ***

 「手を出すだろうな。あいにくわたしゃ聖人でも君子でもないのでね。」
 そうだろう、そうだろう、と私は内心ほくそえんだ。
 彼が思いがけない話を持ち出したのはその後だった。
 「オレは息子を亡くしてるだろう。」
 そうだった。もう2年前になる。中井は当時大学生であった子息を亡くした。凄惨な死だった。学費稼ぎのバイトで働いていたコンビニで万引き犯を発見、追いかけて捕らえようとして犯人が隠し持っていた刃物で殺害されたのだ。
 「曲がったことの嫌いな息子だった。ま、ありていに言えば融通のきかない男だったんだ。で、さっきの話だけど、オレがよこしまな金品に手を伸ばすとする。すると息子が出てきそうな気がするんだ。『おやじ、そんな金、受け取るのか?』ってオレを睨みつけそうな気がする。そうしたら…オレは手を引っ込めるだろうな。」
 私はとっさに窓の外に目をやった。不意打ちを食らってあふれ出た涙を隠すために。

***

 アメリカの社会学者・ハーシは「人が犯罪を思いとどまる要因は何か」という研究を発表している。「遵法精神」や「築き上げた社会的信頼を失いたくない気持ち」などを列挙しながらも、第一の要因は「人の絆」だと主張している。こんなことをしたらもう友達と学校へ行けなくなる、家族と一緒に暮らせなくなる、これまで培った人間関係を失ってしまう。その恐怖が究極の処で犯罪を抑止するというのだ。
 しかし、私の同僚が示した「人の絆」はもっと根源的であると私は感じた。なぜなら彼の子息は既にこの世にいないからである。この世にいない家族が、なおその絆を保って生者に働きかける。この事実は、私のもう一つの疑問への解答ともなっている。最愛の人を亡くした心の空洞、それはこの世を去ってもなお絆は失われるものではないと気づくことによって埋められるのではないか。
 沈黙と思索の内に私たちの車は葬儀場に到着した。通夜の読経と焼香の後、喪主が参列者に挨拶をするのを聴きながら私は、(永遠の別れの悲しみの中で、私たちはさらに深い絆を結んでゆくのだ)と実感していた。

〔頷厭(がんえん)〕心身の慢性疲労の出る経絡というべき胆経の4番目の穴。
 取穴:額の角(=前髪の生え際の最も外側)の少し下でコメカミの少し上。
 治効:「残業で寝不足」の状態で車の運転をする時の「眠気覚まし」にお勧め。

《作者から一言》今回のストーリーはフィクションですが、和歌山県警キッズサポートで活躍されている元和歌山市立吹上小学校校長の林口功先生の有益な示唆でできあがりました。そのご薫陶に心より御礼申し上げます。(宮本)



上は頷厭の図

 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。

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