漢方つぼ物語  (120)
頬 車(きょうしゃ)

〈戦争の思い出〉


 終戦の年、昭和20年に郁生は小学校6年生だった。その年の7月9日深夜に襲ってきた米軍の大型爆撃機B−29の大群は、ふるさとの町の中心部を焼き尽くした。逃げまどう市民の頭上に容赦なく落とされた焼夷弾は火柱を上げ、この世の地獄図を現出した。
 しかし戦争にまつわる記憶の中で郁生の脳裏に最も鮮烈に刻まれているのは、和歌山空襲に先立つ5月下旬に起こった、ある「忘れがたい出来事」である。
 郁生はひそかに(あの出来事がことによると和歌山空襲のきっかけかもしれない)とさえ思っている。
 和歌山のようなさほど軍事的には抜きん出て要衝とも思えない地方都市に、あれほど徹底した空襲がなされたのは、「あの出来事」の復讐であったのではなかろうか、と思われるのである。その出来事とは…。

 ***

 その日、郁生は信じがたい光景を見た。一機のB−29が、黒い煙を吹き出しながら降下していくのである。対空砲により撃墜されたのだ。その後、機は和歌山市よりはるかに南の山間(やまあい)に墜落した。乗組員はまだ生存していて、その内の一人が捕縛されて和歌山市内に連れてこられた。
 「敵兵をこらしめるから手の空いているものは集合せよ。」
 そういう趣旨の放送につられて郁生がさる建物の中に駆けつけると、すでにおおぜいの市民が列を作っていた。そこでさらし者にされているのが、自分の目撃したB−29の乗組員の一人であることを知ったとき、関わりの深さにすこし不思議な気がした。

 ***

 米兵は椅子に縛り付けられていた。「順番にこの鬼畜米兵を平手打ちにせよ」ということであった。明かに捕虜虐待、国際法違反である。
 郁生はしかし深い考えもなく列の最後尾に並んだ。自分のすぐ前に並んでいる年配の男性が唐草模様の風呂敷に包んだ長ものを手にしていることをいぶかしく思っていたが、ついにその男性の順番が回ってきた。男性がすばやく風呂敷を取り払うと銃が出てきた。郁生が驚くまもなく次の瞬間、銃口の側を手に持ち「お前がわしの息子を殺したんか!」と叫びつつ、台座で米兵に殴りかかろうとした。
 さすがに傍らにいた兵隊が制止した。
 「お、おっちゃん(註:和歌山の方言で「小父さん」の意味)、気持ちは分かるが、ここでこいつを殺されると、わしらの立場がのうなるんや。どうせ死ぬに決まっとるが、ここんとこはこらえてくれ!」
 男性は銃を床にばったりと落として、こらえきれずに「うっ、うっ」と男泣きした。

***

 そして次に米兵を殴る順番が郁生に巡ってきた。間近で見ると、まだ二十になるかならないかの若者だ。皮膚の色はぬけるように白いのだが、もう何発もビンタを食らわされて頬が真っ赤に腫れあがっている。気を失っているように見えた。金色のうぶ毛が顔に張り付いているのを見たとき、にわかにこの異国の若者を殴りつける気力が失せた。さっきの男性の行動を見てのショックも、まだ尾を引いていた。
 「ぼく、いいです。」
 そう言うと兵隊は、格別それをとがめるでもなく無表情に言った。
 「では、次!」

***

 終戦を迎え、やがて成人した郁生は結婚して子をもうけ、その子は高校生になると強く希望して海外へ短期留学に赴いた。その縁で今度は海外の高校生をホームステイさせる機会を持つようにもなった。つくづく平和な時代になったものだと思う。そんな中で郁生はかつての記憶を呼び戻す。煙を吐いて落ちて行くB−29、銃で殴りかかろうとしたおっちゃん、失神していた若い米兵…。
 もし今のような平和な時代であったなら、あのおっちゃんと米兵には全く違った出会いがあったかもしれぬ、と郁生は思う。観光に来た若者を「おっちゃん」が親切に案内していたかもしれない。ホームステイさせて、すっかり家族同然となり、別れ際になごりを惜しんで何度も抱き合っていたかもしれない。
 いずれにしても、本来、全く憎み会う根拠のない市民同士が、架空の憎悪を植え付けられて傷つけ合い、さらには殺し合いさえするのが戦争なのだ。
 子や孫の世代に、戦争の惨禍が繰り返されることのないよう、ひたすら祈るばかりだ。

〔頬車(きょうしゃ)〕胃の経絡6番目のツボ。顎関節を動かす咬筋上にある。
 取穴:顔のエラの角から中指の幅だけ前上方。頬をビンタすると当たる辺り。
 治効:下の歯の痛みや顔面(三叉神経第3枝の下顎神経)の痛みに効果的。

《作者から一言》記述の具合的なことからご推察されるかと存じますが、今回のお話の大筋は、親しい方から直接おききした実体験に基づいています。なお、写真はわが家の園子のお友達、ダウン症の井上裕紀子さんの十年ぶりの個展で発表された作品の一つ。この絵の中にも、平和への願いが感じられる。(宮本)



上は井上裕紀子さんの作品と頬車の図

 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。

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