漢方つぼ物語(168)
小 腸 兪(しょうちょうゆ)

〈 脈が触れない 〉

 親子で治療にお越し頂くTさんから、そのいとこに当たられる方について、相談の電話があったのは11月初旬のことだった。手術後、おなかが張って苦しがられているのだという。腹水は処理していただけたが小腸にたまったガスが抜けないのです、助けてやってください、とせっぱつまった様子だ。
 「病院に入院されているのですね。お医者様の許可を頂かないと…」
 医師の許可を得るのは難しいだろうと思っていたら、しばらくして「許可を頂いたから来てほしい」と再度連絡があった。こうなると行かざるを得ない。

    ***

 60歳過ぎのご主人が付き添っておられる。患者はまだ60前と伺っていたがいかにも苦しそうな表情で横たわっている姿は80歳くらいに見えた。
 手術後、腹部に滞留したガスを抜くことは経験がなかったので、鍼灸学校での畏友で、大阪府下で開業しているK先生に電話したところ、具体的な治療法を伝授してもらえた。その内容は次の通りだ。
 まずは足の第2・第3指。平たく言えば足の人さし指と中指。特に左側を丹念に緩める。これは胃腸の蠕動運動を高める効果がある。さらに膝下の足三里。いや足三里だけにとどまらないで向う脛のやや外側、前脛骨筋全体を、膝から足首まで治療すると更に胃腸の動きが高まる。ぜひとも刺激を加えたいのは、小腸兪。腰椎の下、仙骨に左右4つの穴が開いているが、そのうちの一番上の穴、第4後仙骨孔の高さで、仙骨とお尻の骨・腸骨との関節である仙腸関節のところ。
 なるほど消化器の働きを活発にする胃の経絡と、ガスのたまっている小腸に効果のある小腸兪か、と納得した。
 患者さんは身動きできない状態であったが、幸い、足の指や向う脛は容易に治療を施すことができた。横向きになれないので小腸兪は無理かと思ったが、手を腰の下に差し入れると、仙骨孔は案外簡単に触知できた。
 K先生から教わった場所に1時間以上かけて治療し終えた。ご主人が「当分、毎日お越し願いたい」と依頼したが、当の奥様は不安そうに私を見つめていた。

    ***

 紹介者であるTさんから、嬉しいメールが届いたのはその日の夜だった。治療後、便が出て、ガスが出て、ゲップまで出て、おなかの張りが半分になったという。翌日、2度目の治療に赴くと、患者の表情はずいぶんやわらいでいた。なるほど50代のお顔だ。美しい顔立ちの方であることに初めて気づいた。昨日は苦悶のしわが2,30歳年上に見せていたのだった。前回、6か所12の脈の内、数か所で触れなかった脈が、弱いながらもすべて触れるようになっている。この調子でいけば、日に日に恢復するだろう、と思った。きっと患者自身もそう思っただろう。が、ことはそうたやすくは運ばなかったのだ。
 あくる日、3日目の治療に訪れると、病室は重い空気に沈んでいた。患者の実家から高齢の父親が不安げな表情で見舞いにやってきていた。またしてもおなかの張りが増していた。いったんは苦境を脱したと喜んだがゆえに、絶望は深かった。私は気を入れ、祈りを込めて施術を行った。そして神に祈った。
(どうかこの善良な夫婦に、今しばらく平穏で幸福な時間を与えてください。)

     ***

 神は私の願いを聞き入れてくれたようだった。翌日の土曜に訪問すると、患者のおなかは再びやわらぎ、患者の顔に笑顔が戻っていた。すべての脈が平均していた。日曜日はお休みさせていただき、月曜日は午前中でよければ参りますが、というと月曜の朝は病院の駐車場が満杯になるかもしれないという。私は50ccのバイクで行くことにした。しかし、これは相当スリリングだった。朝のラッシュ時の紀の川大橋には横風が吹き、渡った先の合流点では、右側から大型ダンプカー、左側からは何台もの乗用車が迫ってきて、生きた心地がしなかった。寒風にさらされながら、私は冷や汗をぬぐった。
 (患者さんも命がけなのだから、治療師も少しはいのちを懸けなきゃ…)
 この日、患者はずいぶん落ち着いていた。穏やかな表情を絶やさなかった。ところが、いつものように12の脈をとった私は思わず声を上げそうになった。なんとすべての脈が触れないのだ。こんなことは初めての経験だった。勿論、患者さんとご主人には何も言わなかった。希望を語ることが治療師の仕事だ。
 その次の日は午前中に盲学校、午後は県立医大に授業に行く日だった。夕方以降も治療の予定が詰まっていて、どうしても病院に行く時間が取れなかった。  
 県医大から帰宅したとき、Tさんからメールが届いた。
 「お世話になりました。いとこが息を引き取ったと、連絡がありました。」
 すっかり日が短くなり、西に傾いた太陽が、私の目にうつろに映っていた。

〔小腸兪(しょうちょうゆ)〕背骨の両側に6臓6腑の治療穴が並ぶ。その1つ。
取穴:仙骨の最も上の穴の高さ、後正中線の外方1寸5分、仙骨腸関節付近。
治効:小腸を中心に消化器全体の蠕動運動と機能をたかめ、吸収力を良くする。
《作者から一言》最後の治療の折、私は患者を喜ばせようと、赤ん坊の人形を治療鞄に忍ばせた。驚き、ほほ笑んだ姿が一期一会の想い出となった。(宮本)



上は小腸兪の図

 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。

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