漢方つぼ物語(182)
和りょう(わりょう)

〈 見えない壁 〉

 和歌山に移り住んだ石黒つぎ子先生の家を六才位の男の子を乳母車にのせて、ひとりの婦人が訪れた。小児マヒで肢体の自由をうばわれたこの子に、お話を聞かせてやってほしいと願う。その母親に、石黒先生は答えた。
 「みだれ、もつれたお子さんの幸福の一すじでも、たぐりよせるお手伝いができるなら、よろこんで時間をさきましょう」
 手ごたえがある。冷凍の原野に、春の動く音がする。回を重ねるごとに人数はふくれていった。…そのうちだれいうとなく幼稚園、幼稚園と親しまれる。
 こうして昭和12年、和歌山の地に、みどり幼稚園は創立され、石黒つぎ子先生は「押しだされて」幼児教育の道を歩み始めた。(「わが園のあゆみ」より)
 「一人一人の個性のほのかなる香りをも惜しみ見守り培いて育てようとする真摯な」愛情を土台とし、後には健常児との統合保育と位置付けた障害児教育の実践をも取り入れ、みどり幼稚園は輝かしい歴史を刻んできた。

     ***

 創立60周年の翌年平成10年春に竣工した新園舎は「オープンな環境」を設計方針とし、ときにはクラス・学年の隔てを越える「子どもたちの育ちあい」をねらいとする広いオープン保育室には、大きな期待が寄せられた。さまざまな遊びの材料を用意したその部屋で、子どもたちは自由自在に遊ぶはずだ…。
 ところがオープン保育は、直ちには実現しなかった。見えない壁があった。年少3歳児の5クラス全員を保育室に導いたが、子どもたちはクラス単位に固まって混じり合おうとしなかった。やはり常に慣れ親しんでいるクラスのお友だちでまとまっていたかったし、担任教諭もまた、自分のクラスの園児を自分の手元で守りたいとの思いを捨てきれなかったのかもしれない。
 見える壁を打ち砕くには、ハンマーを以てするとよい。東西冷戦のシンボルであった「ベルリンの壁」がハンマーを手にしたドイツ市民たちによって破壊される光景は記憶に新しい。しかしながら、みどり幼稚園のオープン保育室にあっては、クラスを隔てる「見える壁」は存在しないのだ。そうであるならば「見えない壁」は、いったいどのようにして取り払えばよいのだろう。

     ***

 考案されたのはこんな方法だった。園児の通園カバンを収納する可動式の棚を仕切りとして並べて、保育室をあえて五つに分ける。すなわち「見えない壁」を可視化するのだ。これで子どもたちは安心してクラス単位で遊ぶ。仕切りに用いた棚は子どもたちの背より高く、仕切りの外は子どもたちには見えない。先生たちは棚よりも背が高いので全体を見渡せる。この状態でしばらく子どもたちを遊ばせる。「しばらく」とは2,3か月だ。次の段階で仕切りの棚を別のものに変える。園児のハンドタオルを吊るすためのついたて。横板にタオルを吊るす突起を並べていて、両端の柱で支えている。これも先の棚と同様に可動式になっている。これによって子どもたちの視界は変化する。タオルの隙間から周囲の様子が垣間見えるのだ。見通しのきく仕切りの中でクラスのお友だちと遊びながらも、仕切りの外の世界にも関心が向く。
 「あれえ、あそこにあるあの遊び道具、何だろう? おもしろそう。」
 この状態でまたしても2,3カ月を過ごす。そしてタイミングを見計らってその仕切りも取っ払う。こうして当初もくろまれたオープン保育は、ようやく実現した。見えない壁を見える壁に変えて、しかる後に取っ払うという、巧妙にして辛抱強い方法によって。そのプロセスはまた、家庭を基盤として徐々に行動半径を広げていく子どもの成長過程とも呼応している。

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 バリアフリーが叫ばれて久しい。そしてそれは、徐々に改善されつつある。ハンディキャップを持つ人にやさしい社会は、健常者にとっても快適な社会であることが実感されつつある。それは別の角度から見ると、障害を持つ人々によって社会が改善されうることをも示唆している。
 しかし難しいのは心のバリアフリーではないだろうか。こうあるべき、こうすべき、とわかっているのに、実践が困難な部分が残されている。心の中にある「目に見えない壁」を取り払うのが難しいからではないか。それならみどり幼稚園のオープン保育室の経験に学んでみてはどうだろう?
 みどり幼稚園のオープン保育室は、今日も子どもたちの歓声に包まれているに違いない。

〔和りょう(わりょう)〕薬指から肩頸を経て側頭部に至る三焦経23穴中第22穴。
取穴:耳の前、頬骨の最も後ろ(耳寄り)の上方。浅側頭動脈の脈が触れる。
治効:脳の血行・鼻の通りを良くし、視力を高めて、個性を発揚させるツボ。

《作者からの一言》 みどり幼稚園は、ハンデを持って生まれた私の長女と、その妹がお世話になった幼稚園だ。数年前から、私はみどり幼稚園の評議員をつとめさせて頂いている。先日開かれた今年度の評議員会で、みどりの園児達がオープン保育室で、段ボール遊びに興じている写真をお見せ頂いた。まさに「ひとりひとりの個性が香り立つ」遊びの風景であると感じ入った。(宮本)



上は和りょうの図

 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。

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