漢方つぼ物語(190)
厥陰兪(けついんゆ)

〈 コーヒーを一杯 〉

 また冬が巡ってきた。ここ2,3年、新潟市内も雪かきが必要なほどの積雪がある。かつて6年にわたって単身赴任した北海道ほどではないが。
 北海道。徐々に遠い記憶となるものの、あの寒さは忘れられない。大規模な工場を立ち上げ、軌道に乗るまで指導にあたった。妻と二人の息子を故郷の新潟に残して。5年前の春、ようやく任を終えて帰還すると同時に、妻は出奔した。走り書きのメモ風の手紙には、「もうあなたと一緒には暮らせない」とあった。いったい何があったというのか…。
 やがて事情が明らかになった。私が単身赴任した頃、二人の息子たちは既に手のかかる年齢を過ぎていた。もともと体を動かすことが好きであった妻は、ママさんソフトバレーのチームに加わった。そのチームは一人の男性がコーチをつとめていた。メンバーの中では年長であった妻は、年数が浅いにもかかわらずリーダー的な役割を果たすようになり、コーチをつとめる男と親密になっていったらしい。男も家庭を持っていた。いわゆる“ダブル不倫”だ。何人かのメンバーがいさめもしたらしいが、「家庭は壊さないわよ」と取り合わなかったという。そして、とうとう抜き差しならないところまできてしまった。先に離婚したのは男の方だったようだ。相手がそこまで腹をくくったことを意気に感じたか妻は、いや私の元妻は、私に離婚を迫ったのだ。
 私にとっての救いは、当時、高校生と中学生であった息子たちが、私のもとに残ることを選択したことだろうか。もっとも、下の息子の方は、まだ母親が恋しかったらしく、ぎりぎりまで決断をためらっていた。「うす壁一枚のアパート暮らしで、新しい父親とうまくやっていけるのか?」という私の言葉に、ようやく決心して、「父ちゃんのところに残る。」とうめくように言ったものだ。
 五十の歳まで馬鹿正直に働き、給料も銀行振り込みですべて妻に渡し、最低限必要な金だけを小遣いとして暮らしてきた。離婚後、妻がおいていった通帳には驚くほど少額しか残金がなかった。(なんでこんな目にあわにゃあならんのだ)と釈然としない思いを胸に閉じ込めて、私は二人の息子を育てながら黙々と働き続けた。このうえに未練たらしく、去って行った妻の愚痴を言いつつ酒におぼれたりしたら、どうしようもなくみじめだと思ったのだ。(お気の毒に)といいたげな世間の視線には気づかぬふりをして、はや5年の月日が過ぎ去った。息子たちはそれぞれ職を得て、家計を助けてくれるまでに成長した。

     ***

 冷静に周囲を見回すと、理不尽な仕打ちを食らっている男は、自分だけではないことがわかってきた。居酒屋のカウンターでときおり席を並べる四十前の男性は、小学生の子供を妻がひきとる形で離婚したという。男のいうところによると、元妻は「真面目だけが取柄で、クソ面白くもない亭主なんかとサッサと別れて、母子手当をもらったほうがよっぽどいい暮らしができるわよ」と、友人からそそのかされて、それを実行に移したのだという。そんな理由で別れたのに、元妻が連れて出た子供のために少なからぬ養育費を毎月、届けているらしい。「夫婦別れしても、親子には変わりありませんから…」と、さびしそうに笑った。不条理な話だと憤慨して見せたのは私の方だった。

     ***

 今も父子三人の所帯で、掃除と洗濯はそれぞれにこなし、料理は当番制だ。やがて息子たちも順に家を出てゆくのだろう。不倫に走り、その男と再婚した妻への怒りも次第に薄れていくこの頃、ふと思い出したことがある。
 それは北海道へ単身赴任する以前の、何気ない日常の一こまだ。その日は、日曜だったか、祭日だったか、とにかく仕事が休みの日だった。息子たちは二人ともどこかに外出して、私ども夫婦だけが家にいた。新聞片手に、テレビを見るともなくつけっぱなしにしていた私に、妻が声をかけた。「コーヒー、いれようか?」と。私は特別に喉も乾いてはいなかったので、「いや、わしはええ。」と答えた。ただそれだけのことだ。
 そんななんということもない日常のひとコマを、なぜ今、思い出したのか。それはあの時、妻はどんな気持ちで「コーヒー、いれようか?」と言ったのだろう、とふと考えてみたからだ。単に私がコーヒーを飲みたいか飲みたくないかを尋ねたのではなく、(たまには夫婦水入らずで、お茶でも飲みながら、お話しようよ!)と、そんな気持ではなかったのだろうか。そしてもしあの時に、私が「それなら一杯、いれてもらおうか。」と応えていたら、夫婦の間にこんな絶望的な隔たりは生じなかったのではなかったのか、とも思う。
 いずれにせよ、そんなことは、今になって初めて気づいたことだ。何を想い、何に気付いたところで、今となってはどうしようもないことなのだ。
 一人でいれて、一人で飲む茶は、苦みばかりが際立って、胸を締め付ける。

〔厥陰兪(けついんゆ)〕6臓6腑の各々を調える背部兪穴で「心包」を担当。
取穴: 第4.第5胸椎の後ろの出っ張り(棘突起)の間で背骨と肩甲骨の中間。
治効:心のいら立ちを鎮めて、その時その時に冷静で正しい判断を導くツボ。

《作者からの一言》今回のお話を読んだ妻が、即座にこう申しました。「あんたも『お茶飲む?』って私がきいたら、『いらんわ』って、よく言うよ!」(宮本)



上は厥陰兪の図

 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。

[前のページへ] [次のページへ] [メニューへ戻る]
[トップへ戻る]


社団法人 和歌山県鍼灸マッサージ師会
 〒640-8341  和歌山市黒田97−14
 電話  073-475-7771  FAX   073-474-2241

 メールはこちらまで  info@washinshi.com