漢方つぼ物語(209)
足竅陰(あしきょういん)

〈 忘れがたい乗客 〉

 私はCA、客室乗務員です。日本航空のフライトアテンダントとして15年、国際線に乗務して参りました。多くのお客様の空の旅をサポートさせていただいております。ビジネスマン、プロスポーツマン、家族連れ、政治家、芸能人、全てのお客様に機内で安全・快適にお過ごしいただくことが、私たちの究極の使命だと心得ています。お陰様でこれまでのところ、大きなトラブルや事故に遭遇することもなく、お勤めできておりますことを、有難く思っております。お客様には精いっぱいのおもてなしを心がけておりますが、そう特別なことができているわけではありません。ただ…ひとつだけ自分でもよくやったな、と思える記憶があります。それはカナダ・バンクーバー行きのビジネスクラスの席を利用された中年のお客様についての、忘れがたい想い出です。

          ***

 その便の、ほぼ満席のお客様方のご様子を拝見していて、私は一人のお客様が、なにか不安そうな表情をしておられるのが気になりました。腕組みをしたり、中空を見上げたり、何かさびしそうな目をされたりされているのでした。ご家族と離れて単身赴任されるのだろうか、それともとても難しい交渉に臨まれるのだろうか、と私は想像を巡らせました。いずれにせよ、気分を和らげて差し上げなくては、と。お名前でお声をお掛けしようと、搭乗者名簿を座席と照合してみました。すると意外なことに、“Mr. & Mrs.”と書かれているではありませんか。ご夫婦で搭乗されているのです。でも、それにしては奥様の姿が見えないようだけど…。機が平穏な飛行をしているのを確かめて、私はこのご夫妻の席に近づいていきました。奥様はどちらかへおいでになったのですか…とお尋ねしようとした瞬間、私は言葉を失いました。その席には、黒いリボンをかけられた女性の写真が、シートベルトで固定されていたのです。私は、口ごもりながら話しかけました。
 「きれいな奥さまですね。どうなされたのですか?」
 「結婚30年記念のこの旅行を楽しみにしていたのですが、1か月前に突然、脳内出血で亡くなってしまったのです。妻がいないのでは、と旅行をキャンセルしようとしたのですが、息子たちが『母さん、すごく楽しみにしていたから、連れていってあげなよ。』と言うのです。『隣の席に知らない女の人が座ったりしたら母さん、焼きもちをやくよ!』とも。そこで旅行社の人に相談しますと、『その席は奥様のお席です。奥様が一番大事にしていたものを置いてあげてください。』といってくれました。色々と考えた末、子どもたちのお気に入りの妻の写真を飾ることにしました。」
 いったん退いて、私は機長にこのお客様について報告しました。
 「そこに奥様がおられるように、おもてなしをしてください。」
 それが機長からの指示でした。

           ***

 私は再びそのお客様の席に向かいました。
 ちょうど食事を提供する時間が来ていました。私はお尋ねしました。
 「奥様のお好きなものは?」
 「ワインとお魚が好物でした。それからフルーツも大好きでした。」
 奥様の席に、赤ワインをお届けしました。お魚がたっぷり入った機内食を、温めなおしてご用意しました。そしてありったけのフルーツと、そして機内にあるすべてのお花をお持ちしました。
 「ご結婚30周年を心からお祝い申し上げます。どうか奥様とご一緒に、このご旅行を存分にお楽しみいただけますよう、お祈り申し上げます。」
 ご主人は機内に響き渡るほどの大きな声で泣き出されました。目的の空港に機が着陸して降りられる折も、ずっと泣いておられました。そして何度も何度もお礼を言ってくださいました。
 私の客室乗務員としての経験の中で、最も忘れがたいお客様です。

〔足竅陰(あしきょういん)〕目尻・側頭部より体側を下る足の少陰胆経最終穴。
取穴:足の薬指の爪の色が悪いのは脳内出血の兆候。その爪の付け根外側。
治効:頭痛・高血圧を和らげるほか、脳内出血の予防に効果があるとされる。

《作者からの一言》日本航空の客室乗務員であった方の接遇(せつぐう=接待、おもてなし)の研修を受けたことがあります。1985年8月12日日航機123便の事故、羽田空港を飛び立った直後に予期せぬ機内爆発でコントロールを失い御巣鷹の尾根に墜落激突して、乗客乗員524名中520名が犠牲になったあの大惨事。その翌日、同じ便は予約客のキャンセルが相次ぎ、搭乗客よりスタッフの人数の方が多かったそうです。「事故前のように、この便がほぼ満席に復活するのに、どれくらいの期間がかかったとお思いですか?」と、講師である元キャビンアテンダントが受講者に尋ねました。正解は約2年。信頼は永い年月をかけて築かれますが、その信頼も一瞬の事故によって無残に打ち砕かれてしまいます。再び信頼を取り戻すためには、さらに長い年月を要するのだ、というお話でした。ところで今回とりあげたお話は、インターネット上でみつけたエピソードです。まことのおもてなしの実例が、ここにあると思いました。(宮本)



上は足竅陰の図

 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。

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