漢方つぼ物語(228)
侠渓(きょうけい)

〈 貴志川線たま駅長追悼 〉

 忘れがたい客人のお一人。夜、ホテルからの依頼でマッサージさせて頂いた東京からのお客様だ。80代とおぼしき男性。私が部屋に入るなり、少し意外なご依頼を賜った。
「誠に不躾ながら、ひとつ老人のお願いをお聞き届けいただけませんか?」
 どんなお願いかと身構える私に客人は、はにかんだ笑みを浮かべながら、
「足の爪を切って下さらんか。手の爪は何とか切れるのですが、指先も目も疎(うと)くなって、足の爪がめっぽう切りづらいのです。」
 おやすい御用、と私は老人の足の爪を謹んで切って差し上げた。
「お一人の観光旅行ですか?」
「はい、定年後、全国47都道府県の県庁所在地をひとわたり巡ってみよう、と始めた旅行が、もうすべて廻れたかなと確認すると、和歌山市がまだ残っていたのですよ。よってこれが一応の締めくくりの旅となります。」
 う〜ん、トリというのはある意味で名誉だが、わがふるさと和歌山、全国一影が薄い、ということになりはしないか? ちょい複雑な気持ち。

***

 60分間の全身マッサージをさせて頂く間、話が弾んだ。お聴きするところ、この老紳士は高等学校の物理の先生を永く勤められたのだそうだ。NHKの放送局のある渋谷にずっと住まいなさっている関係もあって、教育テレビの物理の授業にたびたび出演されたとか。それを聞き及んで、つい最近たまたまEテレ「高校物理」でかじったばかりのにわか知識で、老先生に難題を出した。
「ひとつクイズにお答えください。ヤモリについての問題です。よろしいですか? 両生類のイモリではなく、爬(は)虫類のヤモリですよ。ヤモリは壁を自在にはい回ることはおろか、天井にも平気で張り付きますよね。そこでクエスチョンです。ヤモリの手足は一体、どんな構造になっているのでしょうか?」
「吸盤…ではないのですよね。きわめて細い無数の繊維からなり、それを壁や天井の分子の隙間に差し入れているのですよね。」
「う〜ん、さすが! おみそれしました。その通りです。やはりよくご存知でしたね。先日見た物理の番組では、これが顕微鏡で確かめられたのは今世紀に入ってからのことだ、と講師の先生がおっしゃっていましたが。」
「私が現職の教師であった頃は、多分そういうことであろうと推測されていて、最近、電子顕微鏡の発達に伴ってようやく確認されたのでしょうね。」
「ではさらにもう一問。どこの家庭にでもあるもので、さしものヤモリでも、ツルツルすべって這うことができないものがあります。それは何でしょう?」
「これはわからない。降参です。」
「では正解を申します。焦げ付かない加工を施したフライパンです。分子の隙間を詰めて、焦げがつかないようにしてあるので、ヤモリの特別細い手足の繊維も入らないようで、ツルツルすべっている様子がテレビに映っていました。」

***

 「ところで私は忠犬ハチ公の頭を、なでたことがあるのですよ。」
 老人は微笑みながらおっしゃった。
「昭和10年頃のことです。『すでに亡くなった飼い主を待ち続ける忠義な秋田県ハチ』との新聞の報道を目にして、自宅から程近い渋谷駅に行ってみると、ハチ公がいたのですよ。小学校に上がったばかりの頃でした。」
「それは今となってはずいぶん貴重な体験をなさいましたね。ところで明日はどこを見て回られますか?」
「まずは和歌山城。和歌山市内を一望します。そして紀三井寺にお参りして…」
「いいですね。どちらも和歌山の歴史と文化が香る名所です。それから?」
ここで、老紳士、にこりと笑って、
「和歌山電鐵のたま駅長にご挨拶に行こうと思っているのですよ。」
「わあ、それは素敵です。かつて忠犬ハチ公をなでられたその手で、明日は、たまスーパー駅長の頭をなでることができますよう、祈っていますよ!」

***

 東京からの忘れがたい客人と出会ってから4年がたった。今年、平成27年6月22日、たま駅長が多くの人々に惜しまれながら天国に旅立った。私は、そのニュースを聞いて真っ先に、かの老紳士との楽しい会話を思い起こした。
 この世の中には、イモリのように、限りなく細い手足の繊維を、壁や天井の分子の隙間にさし入れて、自由自在に這い回ることのできる動物がいる一方で、たま駅長のように、世界中の人々の心の中に入り込んで、優しい思いやりを引き出してくれる動物もあるのだ。
 生命は神秘に満ち、そしていとおしい。

〔侠渓(きょうけい)〕目尻・側頭部から胴体・脚の外側を下る胆経の第43穴。
 取穴:足の小指とその隣の指の間の水かきの手前、足の甲・足裏の皮膚の境目。
 治効:胸部・腰部の神経痛を和らげ、自分の足の爪を切れる柔軟な体を作る。

《作者からの一言》たまの告別式には三千人の人が列席し、県知事からの弔辞が読み上げられた。その後も、たまを偲ぶ人々の弔問は絶えないようだ。(宮本)



上は侠渓の図/新聞掲載コラム

 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。

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