漢方つぼ物語(258)
  率谷(そっこく)  

〈 義母を語る 〉

 「では、私の旦那さんの名前は何でしょう?」
 惠子が母親・好子に尋ねる。
 好子は昨年11月に満90歳を迎えた。十数年前に患った比較的軽度の脳梗塞の後遺症もあって、右腕が動かしにくい。元々膝にも難があり、たびたび転んでは骨折を繰り返し、車いすが必要になっている。昨年も夏前に転んで自力で起き上がれなくなり、ご近所に助けを求める騒ぎを起こしたこともあり、ひときわ暑さの厳しい夏をリハビリ専門病院で過ごすことになった。
 好子には二人の娘がいる。
 惠子は長女である。二人姉妹の長女で、男兄弟はいない。そこで両親は惠子に養子を迎えて家を継がすことを望んでいた。従順な娘であったので、望み通り事が進むと楽観していた。短大を卒業後、相談薬局に就職した惠子は医薬品販売についての経験と知識を身につけ、自分で薬店を開くべく薬種商専門学校に入学した。これで薬種商試験に合格さえすれば、万事はうまくいく…はずであった。ところがここにおいて伏兵が闖入(ちんにゅう)する。惠子は、この専門学校の同級生と“恋に落ちた”のだ。両親の描いていた未来地図は大きな変更を余儀なくされる。惠子は大阪から和歌山へと嫁いでしまったのだ。
 次女の登美子はかねてより希望していた幼稚園教諭となり、家のすぐ近所のお寺が経営する幼稚園に就職、充実した日々を送っていた。次女ゆえに、家にさほど縛られることなく好きな人を見つけてお嫁にいけばよかった。その状況が変わったのは、家に留まりずっと両親と暮らしてくれるはずの姉が、予想に反して嫁に行ってしまったことによる。登美子には、さらに予想外の事態が起こる。幼いときから希望し、一生の仕事にして悔いないと思っていた“子ども相手の仕事”に暗雲が立ちこめてきたのだ。少子化により勤めていた幼稚園が廃園になった。しばらくは公立保育所の非常勤職員を勤めていたが、新設される公立の特別養護老人ホームに準備段階から関わることになった。子ども相手から一転して、高齢者を対象とする仕事に従事することになったのだ。

   ***

 登美子は姉の惠子に胸の内を伝えた。
 「やっぱりお母さんを家でみようと思う。このまま病院で死なすようなことになったら悔いが残る。お父さんも家で最期まで看取ったのだから、お母さんも同じようにしてあげたい。でも、ヘルパーさんに入れ替わり立ち替わり来てもらうとなると、入院している以上に費用もかさむ。お姉ちゃんにも、できる限り力を貸してほしい。」
 そんなわけで今日も惠子は実家に母親の介護に来ている。今のところ好子に認知症の傾向は深刻でないが、念のために家族一人一人の名前を尋ねてみる。惠子の父親、好子の夫であった春男の名を問うと「もう忘れてしまった」と、冗談まじりに言う。二人の娘、二人の孫の名はちゃんと答えた。最後にきいたのが惠子の夫、すなわち娘婿の名だ。
 「では、私の旦那さんの名前は何でしょう?」
 好子は思いがけない返答をした。
 「まさひこ・としき(雅彦・敏企)」
そう答えたのだ。

   ***

 36年前、惠子が薬種商専門学校の同級生である敏企の故郷・和歌山を訪問し、敏企の家に来たとき、敏企が見せた大学の卒業証書に記されたその生年月日に驚きの声を上げた。昭和27年7月23日生まれ。それは満二歳の誕生日の直前に急逝した兄・雅彦の生年月日と全く同じだったのだ。不思議な縁に導かれるようにその2年後、二人は結婚した。
 惠子から、好子が「私の夫の名」をきかれて「雅彦・敏企」と答えたことを伝え聞いて、敏企は強く胸を打たれた。
 敏企には生涯を通して取り組んでいる一つのテーマがある。それは「大切なものをなくしてしまった心の空洞を、人はどのようにしたら埋めることができるだろう?」というものであった。妻の母親が娘の夫の名前を問われ、62年前に喪った息子の名をかぶせて答えた事実は、「大切な人を亡くした心の空洞は、ついぞ埋めることはできない」という回答を示しているように思われたのだ。
 妻の母は、そして5年前に旅立ったその夫もまた、幼くして先立った息子のことを一日たりとも忘れることはなかったに違いないと敏企は思った。自分と顔を合わすたびに妻の父母は、喪った最愛の息子と重ね合わせていたであろう。…そう思うと敏企は、その親心に切ないばかりの深い感銘を覚えるのだった。

〔率谷(そっこく)〕目尻に起こり側頭を巡り体側を下りる胆軽の8番目のツボ。
 取穴:側頭部で耳のてっぺんの位置から1寸5分(指2本分)上がったところ。
 治効:頭部全体の血液循環を促し、認知症予防につながるツボ。偏頭痛にも。
《作者からの一言》ある患者さんに、村上春樹氏の一連の作品に共通のテーマは“喪われしものの追求”だと教わって、あらためて同氏の作品を読んでみた。すると、今迄よみづらかったのが不思議に共感できるようになった!(宮本)



上は率谷の図/好子卒寿の祝宴

 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。

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