漢方つぼ物語 (59)
偏(へん) 歴(れき)
オレ、高井直人。N盲学校をこの春卒業したばかり。2月の末に、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の3つの国家試験を受験した。はり・きゅうの試験問題が、予想以上に細かいところが出ていて、内心ドキドキだった。それだけに合格を知らされたときはほっとした。なんたって4月から、母校の最寄りの駅近くにある整形外科の個人病院に、就職が内定していたのだから。
勤め先のボス、つまり院長先生は、地元のN医大出身の人情派ドクターだ。的確な診断で患者さんの信頼を集めている。オレの役割は主にリハビリテーションのお手伝い。ほとんど運動器疾患に限られるが、いろんな症状を診させてもらえるのでいい勉強になる。がんばんなきゃ!
***
盲学校での同級生に思いを告白した。苦手な点字で、ラブレターを書いた。
「お互いを高め合い、励まし合えるようなお付き合いができるなら…。」
と、それが彼女、柿沢洋子からの返事だった。これって、相当ビミョー。
洋子は希望通り、筑波大学理療科教員養成施設に入学、母校の教壇に立つ夢に大きく一歩近づいた。お互い当分は仕事と勉強に追われ、会うこともままならない。オレが添削を受けているような点字の手紙のやり取りと、週末の夜の携帯電話での会話が、当面二人を結ぶすべてだ。でもそんな日々をなぐさめるとっておきのパートナーがある。それはギターだ。中二の春、定期健診で眼の異常が発見されたとき、将来視力を失ってもずっと楽しめる趣味を、と願って始めた。この趣味でひとさまのお役に立てるなどとは思ってもいなかったが…。
***
院長室に呼び出されたのは季節外れの台風が通過した翌日だった。患者さんから何か苦情があったのかと弱気にもそう思ったが、用向きは全く違っていた。
「高井君、確かギターを弾くって言ってたよな。私の同期生が、N医大病院でホスピスを担当しているんだ。不治の病を得て死期の目前に迫った患者たちのためのターミナルケア(終末医療)だ。催しの希望をきいたら『ギター演奏』というこたえが、かなりあったらしい。どう、やってみないか?」
かくして夜毎にギターと格闘することとなった。指と手首の腱鞘炎を起こして、偏歴のツボの厄介になるほどの…。
***
ついに約束の日が来た。オレはホスピス病棟のホールに愛用のギターを抱いて座っていた。ギター曲の定番である「禁じられた遊び」からスタートして、次第に難易度の高い曲へと進んでいった。無難に数曲を弾きこなしながらも、オレはある一曲を弾こうかどうか迷っていた。その曲とは、優れた演奏と作曲、そして編曲を駆使して、ギターという楽器を芸術の域にまで高めた「近代ギター音楽の父」と讃えられるフランシスコ・ターレガの「アルハンブラ宮殿の想い出」…親指、薬指、中指、人差指の四本の指を連続して素早く動かすことにより、主旋律(メロディ)を、あたかも水が流れるように震わせる「トレモロ奏法」。それは、四本の指の奏でる音の強さ・速さ・音質が均一に揃ってこそ、さらに自由に操れてこそ美しい響きを生み出す。その特殊な奏法が全編を貫く難曲中の難曲、それがこの「アルハンブラ宮殿の想い出」なのだ。危なげなく弾けるレベルまでには、自分の実力は達していない、と感じていた。今回は、この曲だけを外して演奏を終えようと思った。最前列で熱心に耳を傾けてくれていた初老の紳士が、思いがけず言葉をかけてくれたのはその時だった。
「今日はありがとう。君の演奏にはハートがある。うまくは言えんが、君の心の葛藤が、ギターの爪弾きの間からもれ出てくるような、そんな気がした。」
うれしかった。心の葛藤、確かにそうだった。オレはいつも弱さに負けそうな自分と、ギターを武器に戦ってきたような気がする。そんなオレの心の世界を耳で感じ取ってくれたことが、限りなくうれしかった。
「もっと…」
その紳士の斜め後ろの席の若者が、紳士の発言に勇気を得たかのように何か伝えようとしている。
「はい、どうぞご要望を遠慮なくおっしゃってください。もっと、どう演奏したらよろしいでしょうか?」
「もっと…もっと生きたい。もっと生きて、いい音楽をもっと聴きたいです!」
一瞬の静寂が、漣(さざなみ)のように広がった。
(そうだ、オレはホスピスで演奏をしているんだった。この演奏会は今聴いてくれている人たちにとって、この世の最期の音楽になるかもしれないんだ…。)
オレは夢中で「もう一曲」を追加した。抱きかかえたギターはもはや「武器」などではなく、人の心と心を結ぶ縁の糸を張った共感の器だと実感しながら…。
〔偏歴(へんれき)〕手の陽明大腸経の6番目のつぼ。絡穴(慢性症状に用いる)。
註:「遍」歴でなく、つぼの名前としてはこれが正解。
取穴:腕の外側、親指寄りで、手首から肘までを1尺とした
とき、手首から3寸のところにとる。
治効:手の指の腱鞘炎、手首の関節炎、バネ指等。
●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。
尚、前段の物語の部分はフィクションです。
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