漢方つぼ物語  (60)

期(き) 門(もん) 


 酒をやめた。無期限の完全断酒だ。金輪際、何があっても一滴たりとも酒は飲まないと、固く決心した。
 健康上の理由ではない。適量の酒が、身体にいいことはよく承知している。百歳以上の長寿を保っているお年寄りの飲食の嗜好を尋ねたアンケートによると、好きな食べ物のトップは季節の野菜の煮物、嫌いな食べ物のトップは肉、タバコは吸わないが酒は一日平均五勺をたしなむ、とある。つまり一合徳利に半分の日本酒か小瓶1本程度のビールは、まさに「百薬の長」というわけだ。    アルコールは薬理学的には、末梢血管拡張剤として働く。お酒を飲むと頬に赤みがさし、身体が火照ってくるのはそのせいだ。皮膚の表面に近い毛細血管が拡張して血行が良くなる。血液は栄養や酸素とともに温みも運ぶ。よって皮膚温が上昇する。しかしその温みは、本来身体の芯を温めるべきものを皮膚表面から発散しているのだから、酒の量を過ごすと身体を冷やす結果となる。冬場、いい気持ちに酔っ払って路上に寝てしまったりすると、最悪の場合、そのまま凍死することもあるから気をつけなければならない。
***
 健康上の理由でないとすれば、なぜ私は酒を断ったのか。それを解き明かすためには順序として、私の禁煙物語を披露しなければならない。
 「禁煙なんか簡単だ。私は何回もした。」
 皮肉屋の作家、マーク・トウェインの言葉通り、私も禁煙にはてこずった。相当永くやめていたのに、タイミングよく差し出された一本のタバコをきっかけに元の木阿弥に陥ったこともある。さて十一年前の一月、私ども夫婦は結婚十周年を迎えた。近頃、結婚十周年には夫から妻へ、ダイヤモンドを十個ちりばめたアクセサリーを贈るのが慣わしというではないか。スイート・テン・ダイヤモンドというやつだ。この新しい慣習に従うべく私は懐に手を入れたが、悲しいかなダイヤモンドに手が届くだけのポケットマネーは私の財布の中には蓄えられていなかった。私はおそるおそる妻に言った。
「スイート・テン・ダイヤモンドの代わりに、禁煙するっていうのはどう?」
 妻はにっこり笑ってオーケーを出した。かくして十周年の結婚記念日はそのまま私の禁煙記念日となったのである。 
***
 それから十年たった昨年のある日、私はふとこんなことを思ってしまった。
(結婚十周年でうまくタバコと縁が切れた。決心一つで、結婚二十周年に酒をやめることも不可能じゃないな。)
 そして、ふと思いついたそのアイデアを実行してみたくなったのだ。しかしながら当然、迷いもあった。酒はタバコと同じように行くだろうか? 酒にはお付き合いというものがある。皆が気持ちよく酔っている宴席で、しらふで横にいられたら、場がしらけるのではないか。目上の人が酒をつぎに来てくれたとき、これを断るのは無礼ではないか…。
 結局のところ、禁酒を断行しようという意志が、迷う心をねじ伏せた。第一に、自分の精神の自由を試したいと思った。人は自由と称して、その実は欲望のとりこになっていることがある。酒は人生で何物にも代えがたい楽しみだ。その大いなる喜びをあえて遠ざける意志を貫くなら、これをひとつの自由と呼んで然るべきではないか。病気などで泣く泣く酒をやめることは珍しくないが、このような前向きな理由で酒をやめるチャンスは人生でそうそう巡って来ないのではないか。二日酔いで期門のつぼの厄介になることもない。結婚二十周年の祝いに娘がくれた書物の中の、「アルコールは脳細胞を溶かす毒素である」との記述が決め手となった。私は高らかに宣言した。
「酒をやめるぞ!」
***
 酒をやめた直後、和歌山県立和歌山盲学校から非常勤講師にとの依頼があり、50歳にして天職と思えるやりがいのある仕事を得た。さいわい酒をぷっつりやめた私には夜、授業の下調べをする十分な時間がある。酒という楽しみの扉を自ら閉じた代償に、天が開いてくれた新しい扉だと実感する毎日である。
 2004年の7月、私は52歳の誕生日を迎えた。私は妻に言った。
「もうこんな歳になったのだから、少しは自分の好き勝手もさせておくれよ。」
妻はこう返した。
「どうぞ、ゴジュウニ(52)!」
小躍りする私に妻は、こう言って釘をさすことを忘れなかった。
「でもあまり羽を伸ばしすぎて、来年ゴサン(53)の生じない程度になさいませ!」

〔期門(きもん)〕足の厥陰肝経の最後のつぼ。肝経の気が多く集まる「募穴」。
 註:漢方のつぼを順番に並べたとき、締めくくりとなるのがこのつぼ。ここからまた最初のつぼ(肺経の中府)にもどって、限りなく循環し続ける。
 取穴:第9肋軟骨付着部(乳頭線と肋骨弓との交叉部)の下際に取る。
 治効:肝疾患、肝機能障害から二日酔いの諸症状の緩和に。肋間神経痛にも。
  尚、前段の物語の部分はフィクションです。


 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。


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