漢方つぼ物語  (64)

水(すい) 溝(こう)


 「えっ? 今なんて言ったの? イキテイケナイ、とか、シヌ、とか、いったい何のこと? あなた、そもそも誰に電話をかけてるつもり?」
 ―― 年末の残業でクタクタになった体を横たえて、ようやく深い眠りに入った真夜中に、その電話はかかってきた。はじめは夢の中の出来事かと思った。次に、少し意識がよみがえってきて、間違い電話か、いたずら電話らしい、と思った。もとより他人に電話をするには非常識な時間だった。だからガチャンと受話器を置いたってかまわなかったのだ。それをしなかったのは、間違い電話にしては心もとない、いたずら電話にしては妙にせっぱつまった、相手の声の響きが気がかりだったからだ。  「こ、これって、…い、いのちの電話ですよね…。」
 (ああ、そうなのか…。)私はようやく事態が飲み込めた。私の家の電話番号は、いのちの電話の番号に似ているのだ。今までにも何度か、間違えて電話がかかってきた。しかしそのいずれもが、いのちの電話と間違えてかかってきたいたずら電話だった。つまり、いのちの電話にからかいの電話をかけるつもりで番号を間違えて、私のところにかかってきたのだった。
 「いのちの電話」のことは友人から詳しく聞いたことがある。自殺を思いとどまらせるための社会運動で、1953年にイギリスで始まり、今では世界中に広がっていて、日本でも50の拠点におよそ八千人のボランティアが悩める人々の相談相手になっているのだそうだ。
***
 「僕、浪人生なんです。下宿して大手の予備校に通っています。高校時代のガールフレンドと励ましあって勉強してたんだけど、彼女は受かって、僕は落っこちた。来年こそ、って意気込みも空回りするばっかり。模擬テストの成績は思うように上がってこないし、今日たまたま、ガールフレンドがカッコイイ男と肩を組んで、手をつないで歩いているのを見て、全身の力が抜けちゃったみたいで、生きる支えがなくなっちゃって…。もう僕なんかこの世でなんにも役に立たない人間なんだって、そう思ったら、むしょうに死にたくなって…。」
 ぽつりぽつりとため息交じりの打ち明け話を聞いているうち私は腹が立ってきた。気がつけば深夜であることも忘れて受話器に向かって大声で怒鳴りつけていた。
 「ちょっと、あんた! いいかげんにしなさいよ。さっきから黙って聞いてりゃなに? 勉強も恋もうまくいかないって? この世で何にも役に立たない人間だって? ろくに世の中のことも知らないくせに、なにを判った風なこと言ってんの! いい? 私は旦那を癌で亡くしたの。彼、まだ若かった。子どもは二人とも幼くて、目の前真っ暗だった。子どもたちを道連れに、夫の後を追えたらどんなに楽だろうって、正直そう思ったわ。そのとき、二人の子どもが私に向かって、なんともいえない笑顔を見せた。ああ、私は死ねない、この子達のために生きよう! そう思った。あんた、軽はずみなことしたら、周りの人がどれだけ悲しむか、わかってんの?」
 夢中で姿の見えない電話の向こうの相手を怒鳴りつけていて、気がついたら、既に高校生と中学生とになっている子どもたちが、起き上がって私を見つめていた。少し照れくさかったが、なおも私は受話器に話しかけた。
 「ちょっと、きいてる? 何とか言いなさい!」
不気味な沈黙だった。いやな予感がした。やがて、かすかな声が聞こえてきた。
 「もういちど…生きようって…そんな気がしてきたけど…もう遅いかも…。」
 「もう遅いって、どういうこと? 人生で遅いってことはないのよ!」
 「電話する前に、ガスの栓、ひねっちゃった…眠くなってきた…」
 「目を覚ましなさい! いい? 何かとがったもので、鼻とうわくちびるの真ん中を突くのよ。シャープペンシル? それでいい。眠気が飛んだでしょ。ガスを切りなさい。そして、救急車を呼ぶのよ!」
***
 その青年が命をとりとめたことを知ったのは、それから何日もたってからのことだった。警察から連絡があったのだ。自殺未遂ということで青年が警察の取調べを受けて、あの夜の電話の発信記録で私のことがわかったのだという。疲れ込んだときにお世話になる鍼灸師さんに教わっていた「気付けのツボ」が思いがけず人の命を救ったというわけだ。青年は、間違って電話をかけたとは信じず、私のことを、いのちの電話の相談員だと思い込んでいるのだそうだ。本物の相談員が私みたいな乱暴な物言いするはずないだろうに…。事実関係の確認のために私の家を訪れた警察官に、私はこう言ったものだ。
 「どうか、あの若者に伝えてください。また人生で道に迷いそうになったら、鼻と唇の間のツボを思いっきり突いて、命があることを確かめなさいって!」

〔水溝(すいこう)〕背部正中を上がり頭を巡り顔へと下る督脈の第25穴。
 取穴:鼻の仕切り(鼻中隔)の下の浅いミゾを人中(じんちゅう)といい、その中央に取る。すなわち鼻の最下部と上唇のちょうど中間に取る。
 治効:溺れたり・感電したり・ガス中毒したりして人事不省に陥ったとき。

 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。

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