漢方つぼ物語(85)
陽(よう) 谿(けい)

 「内田君、君もそろそろ身を固めたらどうだ! 好きな女はおらんのか?」
 会社の経理を担当する内田啓治が上司の坂本睦郎からそう切り出されたのは、決算に向けての残業がようやく山場を越え、見通しのついた頃だった。
 「いい感じの人だなあ、と思うひとはいます。」
 「ほう、どこで知り合った?」
 「通勤の電車の中です。」
 「もうキスはしたのか?」
 「と、とんでもない。二度ほどお茶を飲んだだけです。」
 「そうか! よし、今晩わしがもらい受けに行ってやる。」
 てきぱきと仕事をこなす腕利きのビジネスマンらしく坂本は部下の内田から相手の女性の住まいを聞き出し、「俺に任せておけ!」と胸を叩いた。

***

 「すまん。だめだった。」
 翌朝、坂本は内田にまずこう結論を言って、昨晩の事の次第を話し始めた。
 「確かに君が言ってたとおり、清楚で感じのいい女性だった。これは応援のしがいがある、なんとしても話をまとめてやるぞ、と内心張り切っていたんだ。」
 坂本の報告はおおむねこうだった。もし相手の女性が内田のことを頼りないとか物足りないとか思っているようだったら、いろんな仕事上のエピソードを持ち出して売り込もうと考えていた。坂本は内田の誠実な人柄と真面目な勤めぶりを日頃から高く評価していたのだ。
 「彼は、あれで案外芯が強くて、大切な人を命かけてでも守るタイプだ。夫にするには理想的だよ!」
 そう説得しようと勢い込んでいた。しかしその女性は内田のことを「とてもいい人」とお愛想ではなく心から思っているようなのだ。しかしそれでもなお、
 「私はどなたとも結婚する気はございません。」
ときっぱり。どう説得しても揺るがぬ決意が見て取れたのだという。
 「…そんなに落ち込むな。よし、君、わしの姪と見合いしろ。おじのわしが言うのも何だが、けっこう器量よしなんだ。次の日曜、いいな!」
 こんな具合で、内田は“失恋”のショックをしみじみとかみしめる間もなく上司の姪と見合いをすることになった。

***

 最初に「好きな女はおらんのか」と尋ねたときに、この上司は、姪と見合いさせようという意図があったのかも知れぬ、と今にして内田は思ったりもする。しかし今となってはもはやどうでもよいことだ。内田は坂本の姪である紫乃と、めでたく結ばれたのだ。やがて生まれた二人の娘のうち、活発な姉の陽子は既に自分で伴侶を見つけて結婚生活を営んでいる。内気だが素直な下の娘・佳奈にはこのところ頻繁に見合い話が持ち込まれる。今日も世話好きの吉崎かの子がそのことでやってきていた。
 「寂しくはなるけど、ここらが潮時よ。思い切ってお嫁に出しちゃいなさい! まさか『どなたとも結婚する気はございません』なんて言ってる訳じゃないんでしょ?」
 そのことばにはっとして、内田は思わず吉崎を睨んだ。
 「な、なによう、そんな怖い顔して睨みつけないでよ。いえね、あったのよ、ずっと以前に。あなたの会社のすぐ近くにお勤めしてた人よ。どんないい話を持っていっても『どなたとも結婚する気はございません』の一点張り。私も、とうとう頭に来ちゃって『今日こそそのわけを聞かせてくんなきゃ帰れない!』ってそう言ったの。そしたら…」
 内田はいつの間にか身を乗り出していた。無理もなかった。二十数年来の謎が今、解けるのだ。
 「…気の毒なのよ。ある夜、会社の帰りに二人の男達に乱暴されたらしいの。涙ぐんでその話しを打ち明けてくれて…。聞かなきゃよかったと思ったわ。」
 内田は無意識にこぶしを強く握りしめていた。まるでかつて愛した人に生涯消えることのない傷を負わせた男達を殴りつけようとするかのように。
 (自分はたいへんな思い違いをしていた。あの人には死ぬほど好きな人がいて、その人とどうして結婚できない事情があるのだ、とそう思い込んでいた。)
 男は狼、とは昔から言われる戒め。しかし男は狼ではない、猛獣使いなのだ、と内田は思う。自然が人間という種(しゅ)を保存するために与えた過剰な性欲を制御する宿命を負った、男という生き物。しかしその欲望をほしいままにして、ひとりの女性の一生を狂わせた男達は、やはりどうしても許せない。
 会社の経理一切を任される責任者となったストレスをやわらげようと最近、通い始めた鍼灸院で処方されているツボにぐっと親指を押し当てながら内田は、かつて妻にと望んだ人の、可憐な横顔を想い出していた。

〔陽谿(ようけい)〕人差し指から肘・肩を経て鼻に至る大腸経の5番目のツボ。
 取穴:手の親指を伸ばしたとき手首で親指の付け根にできるくぼみの真ん中。
治効:「狂言喜笑見鬼」すなわち心穏やかならぬを癒やすと古典に記載あり。
《作者から一言》欲望や憎悪、ストレスを制御できずに世間を騒がせる事件が多発する中で、砂漠のオアシスのように心をなごませてくれたのは、秋篠宮家の親王様誕生のニュースです。和歌山県有田川町の旧・清水町は、紀子さまの曾祖父のご出身地。また紀子様のご実家である川嶋家の江戸時代からの菩提寺である専念寺が和歌山市内にあります。そこでこのところ腹話術のツカミ(初っぱなに観客の心を捉えるネタ)に、写真の赤ちゃんの人形を出して「はい、お忍びのゲスト、秋篠宮様のご子息ですよ。お祝いにソーラン節を。『妊娠したとは噂に聞けど元気で生まれてめでたいね!』すると赤ちゃんが『ハイハイ!』と合いの手。そこですかさず『じきに這い這いもすることでしょう!』」(宮本)


 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。

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