漢方つぼ物語  (96)
太(たい) 衝(しょう)
《 バリ島ロケ記念三部作その1
「ドクトル中村」 》

 その日本人女性の姿を見かけたのはバリ島ウブド村の市場でのことだった。なにやら人を探している様子だった。写真を示しながら「この人を知らないか」と尋ねまわっていた。私の興味を引いたのは彼女のリュックにぶら下がっていたお守り袋の図柄。それは八咫烏(やたがらす)だった。熊野の神の使いとされるこの三本足のカラスに目を引かれた理由、それは、それが和歌山に起源を持つもので、この私もまた和歌山県有田郡湯浅町の出身であるからだ。やがて彼女が探しあてた恋人を、依頼を受けて私が診察することになったとき、巡り合わせの不思議に驚いたものだ。

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私の名は中村誠。れっきとした日本人だ。ここバリ島で医者の看板を掲げてはいるが、正式の医師の免許資格を持っているわけではない。かといって医業とは無縁でもない。
 六十余年前、私は医学生だった。学業半ばにして学徒出陣で召され、軍医としての短期間の訓練を経て、赤道を越えた南の島に出征した。戦利品を満載して一旦帰国する途次、乗っていた船は敵の攻撃を受けあえなく沈没、無我夢中で陸に這い上がったとき、私の左足は膝から先をもぎ取られていた。この島には日本軍の戦時病院が設けられていたが、私の手当をしてくれたのは信心深く博愛の精神に富んだ、この島の村人達だった。私は決心した。もぐりの医者としてこの島に住んで、沖合に沈んでいった戦友達の菩提を弔い続けよう、と…。

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 そうは言っても、祖国に一抹の未練がなかったわけではない。縁故の人々に会いたくないと言えば嘘になる。特に出征の前夜、桜満開の施無畏寺(せむいじ)で私にお守り袋を手渡した許婚(いいなづけ)の小野菊江への思いは尽きることがない。女の髪の毛は命をこの世に引き留める力があるのだ、と自らの髪をお守り袋に入れた菊江。必ず生きて君の元に帰る、と誓った私。施無畏寺の山号は「補陀洛山(ふだらくさん)」。南の海の果てにあるという観音浄土を目指す補陀洛渡海伝説に基づく。また寺の名は開山の明恵上人が「生きとし生きるものに畏れ無きを施す寺」として殺生禁断(せっしょうきんだん)の地となることを願い名付けたと伝え聞く。ああ、そのような由来の寺で、愛する人に別れを告げ、私は南海の果てに殺生のために赴かねばならなかったのだ!

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 ウブドの市場で遭遇した日本人女性が探していた男性は、ひとたびこの女性に見切りを付けられ、傷心の旅の果てにこの島を訪れたものらしい。そこで彼と関わったのは反政府ゲリラのボスの妹であった。このボスを私はよく知っている。腐れ縁と言おうか、彼らも私も「裏社会」の人間であるから…。奇妙な事の経緯の中で、囚われの身となったその男性を、私は身を挺して救う羽目となった。彼を助けようとするくだんの女性の真剣さにほだされたのだろうか。もしくは私はこの恋人達に、菊江と私との影を映していたのかも知れない…。

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 とにかく私はこの男性と引き替えに60年以上、大事に持っていた「宝物」をボスにくれてやった。それはバリ島最後の王朝・クルンクン家の刻印の入ったダイヤの指輪であった。沈没する船から持ち出し、いつか菊江に贈ることができればと夢想しながら、お守り袋とともに常に義足の中に隠し持っていた。しかしこの指輪は、やつらにくれてやるには余りに値打ちがあり過ぎたようだ。「もっとあるだろう、もっとよこせ」とボスは私の診療所に押しかけてきた。「あれっきりだ、もうない」と私が言うのを信じず、私の義足をつかみ取った。義足からお守り袋が落ちた。「なんだ、これは」とボスはお守り袋を逆さまにして無造作に振った。髪の毛が…菊江の髪の毛が宙を舞った。60余年の間、私を守り続けた菊江の髪がぞんざいに扱われたことは私に冷静さを失わせた。

***

 「この悪党め!」
 私は片足立ちでボスにつかみかかり首を絞めようとした。その時、私は背中に刃物が突き立てられる鋭い痛みを感じた。そうだ、ボスはいつもこけおどしに大きなはさみを持ち歩いていた。はさみは私の内臓深くに届いているようだ。私の目の前にはお守り袋が落ちている。その周辺には菊江の髪の毛が散らばっている。混濁する意識の中で私は腕を伸ばす。しかしもうあと少しなのに私の手は菊江の髪に届かない。私は、かの日本人女性に菊江への手紙を託したことを思いだしていた。自分が異国の地で生き永らえていること、魂はいつも共にあったこと…。あの手紙は菊江に届くだろうか。いや、そもそも菊江は生きているのだろうか。視界が暗くなった。意識が遠のく。風に乗って聞こえてくる鐘の音は、ガムラン(バリ・ヒンズー教に特有の打楽器)の音なのだろうか、それともふるさと湯浅町・施無畏寺の鐘の響きなのだろうか…。

〔太衝(たいしょう)〕肺経から始まる手足12経を締めくくる肝経の第3穴。
 取穴:足の甲で足の親指・人差し指の間のずっと付け根の骨の交わる際に。
治効:恋患いは漢方的には肝鬱証。肝の気を通し頭と心を健やかにするツボ。

《作者から一言》 今回の漢方つぼ物語は、廣瀬茂之監督・脚本による自主制作映画「君に捧げるサンバ」のストーリーを登場人物である元日本兵・中村誠の視線で捉えたものです。そしてその役を、ご縁を得て私が演じさせていただきました。この映画は既に編集作業を完了し、上映時間2時間の大作として平成19年9月28日(金)午後7時から、和歌山県庁真向かいの和歌山県民文化会館小ホールにおいて、試写会が予定されています。(宮本)


上はDr中村の写真と太衝の図

 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。

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